いい意味で他人に興味がない,
言い換えると他人に介入,余計なお世話をしない,
圧力もかけないし強要もしない,
要はハラスメントをしない。
こういう人はハラスメントを強く受けている人には
優しく見えるんだと思う。
ヒアリの例は災難ではあるけど,
「役に立つ」研究を大学に強制して短期的にかつ金銭的に
「役に立つ」ように見えないことへの好奇心に
フタをする動きが危ういものであることを教えてもくれている。
いま「アリなんて調べて何の役に立つの?」って言われる事も少なくなかった知人のアリの研究者さん達、軒並みヒアリの件で東奔西走していて、研究ってこういうものなんだよなと身にしみる。
必要とされるまで価値が分からなくとも、必要になってから調べたのでは遅い事って、沢山あるんだよね。— 小森雨太 (@comori_uta) 2017年7月7日
「干渉や介入をやめましょう」だと「干渉」「介入」を忘れられなくなっちゃうから
(干渉・介入をやめて”しまえている”状態になりにくい),
「相手も自分も大丈夫な存在だし,
放っておいても深い意識の底では私たちはつながっているので,
相手に提示だけして委ねましょう」
という表現を広げるのがよさそう。
「無視しましょう」も分離感があるし語感もきついので
「相手の大丈夫さを信じて見守りましょう」のほうがいいかな。
これに加えて
「相手が助けを求めてきてはじめて,
どう助けたらいいかを識別するようにしましょう」
と伝えるくらいか。
相手が言ってきたとおりにすることが最善とはかぎらないから。
こちらもとても参考になります。
■何も言わない勇気。人を信じる勇気。,ナリ心理学
■何も言わない勇気。人を信じる勇気。,ナリ心理学
を読んで感じたことを書いておきます。
他人に何か言いたくなるのは
自分の内面に固定観念があって,
「固定観念の基準から外れている=悪い」
と思い込んでしまうからです。
次の記事は児童の教育がメインですが,
大学の学生が相手だとしても
教育の場面で余計なお節介をいかにやめるかが
教えることに何を加えるか(押しつけの介入を増やすこと)よりも
大事だな,と感じています。
一人ひとりが切り話された存在と考える自我意識を超えて
全てはつながっていると捉える普遍意識から物事をみると
おせっかいや介入は減るんだろうなあと
次の記事を読んで感じました。
■開沼博:俗流フクシマ論批判
【番外編】「福島へのありがた迷惑12箇条」
~私たちは福島に何が出来るか?~
次の集中講義の4日目でモラルハラスメントに陥っている人を
他人が直接助けることはできないことが語られています。
(現在はアーカイブになっており,IWJ会員のみ閲覧・視聴ができます)
■2014/09/11安冨歩教授 集中講義「親鸞ルネサンスとは何か ~親鸞と清沢満之とを導きとする学問の再編成~」
(リンク先に集中講義のダイジェストがあります)