タグ別アーカイブ: 罪悪感

ケネス・ワプニック:奇跡講座入門 講話とQ&A,中央アート出版社 (2011)

分離感を認識し,すべてが一つにつながっている意識に
向きを修正することを教えてくれる奇跡講座ですが,
読んでいるとわかりにくい概念がいくつも出てきます。

「精霊」「心眼(ビジョン)」「神聖な関係」って何だろう?
と不思議に思いながら読んでいました。

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分離意識は自分独自の役割の認識に必要だが罪悪感も連れてくる

次の安富歩さんのインタビュー記事を読んで
分離意識の影響は本当に強烈だと感じつつ,
対策を言葉だけで表現することは基本的に不可能だなとも思いました。

■森脇早絵:
仕事や家庭のストレスの根源にある「罪悪感」を癒すためにやれること
東京大学東洋文化研究所 安冨歩教授に聞く「ストレスの正体」【3】,
日経Gooday

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罪悪感やメンタルブロックは必要だから存在する,でも手放すときがあってもいい

ある固定観念に外れることをすると
「こんな自分はダメ」
「こんなことをしてはいけない」
と罪悪感やメンタルブロックに襲われることがあるかもしれません。

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「目の前のことを丁寧に行う」は背景の想念に「立場主義」「罪悪感」を潜り込ませないのが大切

次の安富歩さんの立場主義,モラルハラスメントに関する記事を読んで
葦原瑞穂さんの『黎明』と絡めて感じたことを書いておきます。

■森脇早絵:「仕事が苦しくて辛いのは、自分が無能だからだ」とは思うな
東京大学東洋文化研究所 安冨歩教授に聞く「ストレスの正体」【1】

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深尾葉子:魂の脱植民地化とは何か,青灯社 (2012) -1-外部規範を自分の感覚と思い込まされるのが魂の植民地化

この書籍もモラルハラスメントが起こる仕組みと
その呪縛から脱する方法が書かれています。

「魂の植民地化」と「モラルハラスメント」は実質は同じことです。
人それぞれが本来もっている魂の感覚を「否定」され,外部規範を「強制」され,
外部規範から導き出される判断が自分の感覚と思い込まされるのが
魂の植民地化です。

外部からの刺激に対して最初に出てくる肉体本来の反応=「情動」を
発生させるのが「魂」です。

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罪悪感や自責の念を手放すには自分の感情を俯瞰してみる

昨日に続いて「責めること」について書いていきます。

責めるなんて必要ないよ,と言われても
それだけで手放せるほど事は簡単ではないと思います。

手放すためのコツがこちらの動画で紹介されています。

■田久保剛(たくぼたけし)Official Channel,
自分を責めずに俯瞰するメカニズムと方法

田久保剛さんのブログでの解説はこちら↓です。
自分を責めない魔法の言葉

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大人は人格も能力も完成して固定化されているわけではない

その辺のクマ8thシーズンを見ると
大人がこれ以上変化の余地のない
固定化された状態にあるわけではないこと,
必ずしも合理的な行動をとっているわけではないことがわかります。

その辺のクマ8thシーズンvol.01~03,ジニーフレーム公式開発ブログ
Youtubeの8th-1シーズン再生リスト
Youtubeの8th-2シーズン再生リスト
Youtubeの8th-finalシーズン再生リスト
(公式ブログ上での動画公開は終わってしまいました)

大学生だとちょっと遅いかもしれませんが,
社会人になる前に社会人のおかしな振る舞いを
知っておくのは意義があります。

大人に叱られてもセルフイメージを下げたり
無価値感・罪悪感をもったりする必要はありません。

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しつけや教育が罪悪感や無価値感の源泉になることもある

安冨歩さんの生きるための経済学(NHKブックス)
「第五章 生命のダイナミクスを生かす」を読むと,
しつけや教育と称して「~であるべき」「~をしないといけない」と
固定観念を植えつけることが,行動を止めたり,
行動を通じた学びを妨げたりしているなあ,
と感じました。

通常は固定観念に外れた場合,叱責されます。
これによって固定観念に外れる行為に罪悪感をもったり,
固定観念に合わせられないことに無価値感をもつようになったりします。
このような感情の中で学びを得ていくことはできないでしょう。

自分で考えた行動で怒られるくらいなら
言われたとおりに動くだけでいいと思ってしまうのも無理はありません。

いわゆる厳しい家庭で育つほどこの傾向は強まりそうです。

安冨歩さんは固定観念の押し付けで相手の学習回路を閉じてしまうことを
モラルハラスメントとよんでいます。

ただこれへの対策を取るのは非常に難しいです。

「~であるべき」「~をしないといけない」と
言ってくれるのはいいことだと
言われる側も思い込んでいるため,
被害にあっているとわかりにくい面もあるからです。

次のリンク先の動画も参考になります。

リンク先の一番上の動画に出てくる話で,
ハラスメントと認定されるには,
・継続的 ・情緒的 ・隠蔽的
という条件が必要なんですね。

教える側のほうが権力が大きくて露見しにくいのも
大いにありそうです。

■IWJ,2014/09/11 【京都】安冨歩教授 集中講義「親鸞ルネサンスとは何か ?親鸞と清沢満之とを導きとする学問の再編成?」四日目(動画)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/168311
(現在はIWJの会員だけ全編をご覧になれます)

固定観念にとらわれずに自分のやりたいことを
やりたいようにやってもいいはずです。

そのかわり,自分に起きる現象を素直に受け止めて
対応する方法を学んで実践していけばいいのです。

『論語』でいう「仁」のダイナミックな学習サイクルの中にいれば,
外から教育を強制する必要はないのかもしれないしれませんね。

せいぜい教育する側ができることは
「仁」の学習サイクルを促すことなのでしょう。
いや,本来ならこのサイクルは自然と回るはずなので
邪魔をしないことのほうが重要かもしれません。