分離感を認識し,すべてが一つにつながっている意識に
向きを修正することを教えてくれる『奇跡講座』ですが,
読んでいるとわかりにくい概念がいくつも出てきます。
「精霊」「心眼(ビジョン)」「神聖な関係」って何だろう?
と不思議に思いながら読んでいました。
分離感を認識し,すべてが一つにつながっている意識に
向きを修正することを教えてくれる『奇跡講座』ですが,
読んでいるとわかりにくい概念がいくつも出てきます。
「精霊」「心眼(ビジョン)」「神聖な関係」って何だろう?
と不思議に思いながら読んでいました。
次の安富歩さんのインタビュー記事を読んで
分離意識の影響は本当に強烈だと感じつつ,
対策を言葉だけで表現することは基本的に不可能だなとも思いました。
■森脇早絵:
仕事や家庭のストレスの根源にある「罪悪感」を癒すためにやれること,
東京大学東洋文化研究所 安冨歩教授に聞く「ストレスの正体」【3】,
日経Gooday
次の安富歩さんの立場主義,モラルハラスメントに関する記事を読んで
葦原瑞穂さんの『黎明』と絡めて感じたことを書いておきます。
■森脇早絵:「仕事が苦しくて辛いのは、自分が無能だからだ」とは思うな
東京大学東洋文化研究所 安冨歩教授に聞く「ストレスの正体」【1】
昨日に続いて「責めること」について書いていきます。
責めるなんて必要ないよ,と言われても
それだけで手放せるほど事は簡単ではないと思います。
手放すためのコツがこちらの動画で紹介されています。
■田久保剛(たくぼたけし)Official Channel,
自分を責めずに俯瞰するメカニズムと方法
田久保剛さんのブログでの解説はこちら↓です。
■自分を責めない魔法の言葉
為末大さんの「自信」に関する記事を読んで
私が感じたことをまとめておきます。
■Dai Tamesue日々のつぶやき,自信
http://daijapan.tumblr.com/post/100624584348
その辺のクマ8thシーズンを見ると
大人がこれ以上変化の余地のない
固定化された状態にあるわけではないこと,
必ずしも合理的な行動をとっているわけではないことがわかります。
■その辺のクマ8thシーズンvol.01~03,ジニーフレーム公式開発ブログ
■Youtubeの8th-1シーズン再生リスト
■Youtubeの8th-2シーズン再生リスト
■Youtubeの8th-finalシーズン再生リスト
(公式ブログ上での動画公開は終わってしまいました)
大学生だとちょっと遅いかもしれませんが,
社会人になる前に社会人のおかしな振る舞いを
知っておくのは意義があります。
大人に叱られてもセルフイメージを下げたり
無価値感・罪悪感をもったりする必要はありません。
安冨歩さんの『生きるための経済学』(NHKブックス)
「第五章 生命のダイナミクスを生かす」を読むと,
しつけや教育と称して「~であるべき」「~をしないといけない」と
固定観念を植えつけることが,行動を止めたり,
行動を通じた学びを妨げたりしているなあ,
と感じました。
通常は固定観念に外れた場合,叱責されます。
これによって固定観念に外れる行為に罪悪感をもったり,
固定観念に合わせられないことに無価値感をもつようになったりします。
このような感情の中で学びを得ていくことはできないでしょう。
自分で考えた行動で怒られるくらいなら
言われたとおりに動くだけでいいと思ってしまうのも無理はありません。
いわゆる厳しい家庭で育つほどこの傾向は強まりそうです。
安冨歩さんは固定観念の押し付けで相手の学習回路を閉じてしまうことを
モラルハラスメントとよんでいます。
ただこれへの対策を取るのは非常に難しいです。
「~であるべき」「~をしないといけない」と
言ってくれるのはいいことだと
言われる側も思い込んでいるため,
被害にあっているとわかりにくい面もあるからです。
次のリンク先の動画も参考になります。
リンク先の一番上の動画に出てくる話で,
ハラスメントと認定されるには,
・継続的 ・情緒的 ・隠蔽的
という条件が必要なんですね。
教える側のほうが権力が大きくて露見しにくいのも
大いにありそうです。
■IWJ,2014/09/11 【京都】安冨歩教授 集中講義「親鸞ルネサンスとは何か ?親鸞と清沢満之とを導きとする学問の再編成?」四日目(動画)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/168311
(現在はIWJの会員だけ全編をご覧になれます)
固定観念にとらわれずに自分のやりたいことを
やりたいようにやってもいいはずです。
そのかわり,自分に起きる現象を素直に受け止めて
対応する方法を学んで実践していけばいいのです。
『論語』でいう「仁」のダイナミックな学習サイクルの中にいれば,
外から教育を強制する必要はないのかもしれないしれませんね。
せいぜい教育する側ができることは
「仁」の学習サイクルを促すことなのでしょう。
いや,本来ならこのサイクルは自然と回るはずなので
邪魔をしないことのほうが重要かもしれません。