タグ別アーカイブ: 分離意識

モラルハラスメントから学びを得て手放そう

次のツイートを読んで感じたことを書いておきます。

私自身が教員をしているので
受け入れるのはつらいところもあるのですが,
教育のほとんどは相手の魂にフタをしてしまう
闇教育(モラルハラスメント)なんですよねえ……。

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大谷英輝さんの『己を生きるとは』で実相の理解を深める

大谷英輝さんのブログ
「人生の答えはすべて自分の内側にあった」に連載された
『己を生きるとは』シリーズを紹介しておきます。

己を生きるとは(1)
己を生きるとは(2)
己を生きるとは(3)
己を生きるとは(4)
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「戦う」「攻撃する」のではなく「受け流す」「やりすごす」

『黎明』や『奇跡講座』を読み続けながら
日々の行動とそこから生じる感覚をふりかえると,
分離意識・不完全性の視点があるから
自分の周囲に見える現象に不満や葛藤が生じるのが
わかってきます。

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自分の感性を守るために欺瞞やハラスメントを感じ取る

欺瞞や感性を縛る表現を含む
現象にたんだん敏感になってきていると感じます。

たとえば,大学の賞や同窓会の会費徴収も
評価できるはずもないので評価していることにする欺瞞や
コミュニティに入ることを強制するハラスメントを
多分に含んでいると感じます。

でもこれらも悪いと単純に判断できることではなくて
その影響を減じることの大切さを伝えるために
目の前で起きてくれているのかもしれません。
これも何らかの愛の表現なのでしょう。

ここで流されてしまうと自分の魂にフタがされて
感性が死んでゾンビ化してしまう気がします。

分離意識・自我意識ではなく
普遍意識,つまり深い意識,大きく一つにつながった意識を
想像しつつどうするのがいいか考えていこうと思います。

競争よりも切磋琢磨を促したい

三橋貴明さんの次のブログ記事を読んで
競争よりも切磋琢磨を促したいと感じます。

■切磋琢磨と競争
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/day-20150608.html

前者は勝者と敗者を分ける分離意識・自我意識の視点が強く,
後者はお互いをよくしようとする全体意識(普遍意識)への
つながりを感じ取れます。

まあ,勝った負けたが決められると思うのが
幻想のような気もします。
”自分だけ”が勝つことが本当にいいことなのか?
と問われると疑問もあります。

教育のスローガンによく出てくる
「グローバルな競争に勝つために……」という言葉も
分離意識から普遍意識への流れが強まると
自然となりを潜めていきそうです。

お金が減るのが怖い

数年で任期を迎える仕事をしていて
職の不安定性へのリスクヘッジのために
お金を蓄えるようにしてきました。

しかし一方で,蓄えが増えてくると
今度は失う不安・恐怖が芽生えてきます。
もし職を失って蓄えを崩しながら生活することになったら……
ということに恐れを感じます。

お金があれば安心というのも幻想が含まれているのを感じます。
お金”だけ”に頼ろうとしているからなのでしょう。

依存先が増えていかないと安心感が育たないし,
お金だけでは本当に自立に向かっている感覚に
なっていかない気がします。

お金は分離意識や自我意識を和らげるどころか
強めてしまうところもありますし……。

お金による幻想を手放すことが大事になってくるステージに
入りつつあるからこのように感じるのかもしれません。

すべてがつながっていて一つという真理・普遍意識から見ると
お金は個的表現をしやすくするための手段の一つに過ぎません。

価値とは何なのか?

次のコラムを読んで,

「~であるべき」に囲まれたり
「分離意識」から欠乏感が強まっている
→優位な立場に立たないといけない
→優位な立場と認めらると感じやすいことしか  価値としてアピールできない
→価値として考えられる範囲が狭くなってしまう
→価値と思えないから提供しようとも思えない
→価値提供につながる行動がしにくいから
提供できる価値が見出せないし,価値を高める機会ももちにくい
→アピールできることが育ちにくいし,言いにくい

という流れがあると感じました。

■石倉洋子「グローバルリーダー目指し、一歩前へ」 「自分のマーケット価値」をどう高める? ユニークさを説明しながら掘り下げる両面作戦が有効(3/6ページ目)
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/407250/052500008/?P=3(リンク切れ)

その人独自の価値というのは,
その人の深い意識(普遍意識)から来るやりたいこと
連動していると考えています。

でも「やりたいことをやっています」っていいにくい世の中なんだろうなあ,
とも感じます。
やりたいことをしている人
→特別な人(=自分には無理),または
→自分勝手な人
という固定観念もあるでしょうし。

「~すべき」「分離意識」の傾向を手放していければ
やりたいことをして,それを通じて価値を提供できるし,
価値のアピールも自然とできる気がします。

もちろんこのアピールは「優位な立場」なんて幻想を
手にするためのものではなくて,
そうしたいからするというだけという感性の表現になるはずです。

客観的に評価していることをアピールする欺瞞

次のような方針は数字で評価しやすいことだけで
判断しようという典型例と感じる。
人間の感性を全く信頼しないとこういう方向に行くんだろうなあ…。

■徹底した大学のモニタリング,広島大学
http://hiroshima-u.jp/sgu/page02_02

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