借金して大学に行く,研究職になるのは
「ストックなしに」チャレンジすること。
非常にリスクの高い行為だ。
しかし,このリスクの高さは
あまり認識されていないと思う。
「自ら」が「みずから」とも「おのずから」とも読めると書いてある
次のツイートに
「みずから」だと自我意識的で(普遍意識と対極にある状態),
「おのずから」できてしまうところに
自我意識を超えた大事なものが
隠れていることが表現されています。
「自ら(みずから)」と「自ずから(おのずから)」は、同じ漢字だけれど意味合いが結構違うという話を聞いた。自分の意思で動くのが自らならば、自ずからには『自然と身体が動いてしまう』感覚がある。自意識を超えて身体が勝手に反応してしまう瞬間の中に、新しいヒントはあるのだろう。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 8月 14
また↓ツイートから,
「おのずから」できてしまうことを焦点を当てて
「おのずから」ではできないことを責めなくてもいいんだろうな
と思いました。
外部から来る基準に合っているかどうかよりも
それが自分に合うかどうかのほうが大事です。
やりたいことをやる勇気と同じくらい、やりたくないことはやらない勇気も大切になるのだろう。そして、やりたくないことはやらないと決めた瞬間から、自分の人生に言い逃れをすることができなくなる。やりたくないことはやらないのだから、途端に日々は本質的なものにならざるを得なくなる。 — 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 8月 14
このツイートでふと思ったのですが,
「おのずから」できてしまうことに
「勇気」は必要ないはずです。
自然とできてしまうんですから。
「勇気」って一体何なんでしょう……?
勇気には自我意識的に何かに逆らって無理やりする
印象を受けます。
「勇気」が必要になる背景には
不安や恐怖がつきまといます。
不安や恐怖は実体のない幻想ですから
勇気が必要というのもまた幻想と言えそうです。
勇気を振り絞って何かをすることは良いことだと思う
価値観が私にもありますが,この価値観があること自体が
自我意識の支配がまだまだ強いことの顕れだと感じます。
固定観念を外していくと
「…でなくても構わない」ことはたくさんあります。
■参考
坂詰圭吾:【KIJ-ロンドン】「他人に迷惑をかけてはいけない」という嘘。いばや通信
http://ibaya.hatenablog.com/entry/2015/06/25/095930
聞こえはいいが立ち止まって考えると
何を指しているかよくわからない言葉の一覧:
(固定観念やモラルハラスメントが背後に見え隠れする言葉でもある)